Osaka Yachtman Scout

 

1970年代、大阪南の材木問屋の御曹司がキャプテンで、10人ほどでディンギー3艇作り訓練をしながら堺市の出島で解体された大型船舶の救命ボート(30人乗り?)を改造し、世界一周を目指していました。      浜寺ヨットハーバーに居た青木洋さん(石津港から信天翁Uで世界で初めて喜望峰回りで単独世界一周を成し遂げた)とも一緒にセーリングをしました。

その手始めに、エンジンとバラストを付けた時点で訓練をかね、和歌山の加太港まで8月の盆休みに、以前は二色浜ヨットハーバーに係留していたが、堺市の石津漁港にまだヨットハーバーが無かったので、漁業組合員として係留をしていました。                                               出発の日、地元漁師さんたちが珍しそうに見にきていました。「アホちゃうか」と言ってたと思います。                                                           

 

いつも練習をしている浜寺の水路、快調。

 

途中から台風の影響で雨が降り波も高くなってきました。

 

結局天候が悪く加太まで行けず、淡輪港の沖に停泊中のハヤテ丸(小野船長)に横付けでき難を逃れました。

   

翌日は天候も良く積んできたディンギーを降ろし2本マストのハヤテの上から写真をとったり甲板を洗ったりと楽しみましたが。

この後帰りはボートとディンギー2艇に分かれ石津港まで帰りましたが、紀伊水道から大阪湾の高波が私が乗ったディンギーは木の葉のよう仲間のマストが完全に隠れる高波の底から一気に波の天辺そこから真逆さま、メインセール半分で航行していたがティラーも効かず、まるでサーフィンの様。怖かった。

これが最後でクラブも自然解散になり。後、石津ヨットハーバーが誰か他の人によって開かれる。